本格復刻画 日本画 吉野山桜花 平山郁夫
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商品説明
平山郁夫、晩年の作品。シルクロードなど中国をテーマとすることが多い平山作品の中では珍しい桜とお寺という日本をテーマにした作品。
夜空に淡いピンクの桜が美しい。
世界じゅうを巡った平山郁夫。多くの世界を見つめたからこそ感じた日本の美。彼が最後にたどり着いた原風景なのでは?と感じた作品。
平山家・平山郁夫美術館が額縁選定から携わった公認品。
仕様 | |
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サイズ | W 70 cm x H 55 cm x D 5 cm |
重さ | 約4.2 kg |
素材 | 木・紙・布・アクリル |
内容物 | 額縁(木製金泥椽)、画材紙(画寸:51×37cm)、布製マット、UVカットアクリル、ひも、保証書(エディション番号入り/額裏貼り付け)、付属品(黄袋、紙タトウ箱) |
特徴 | 500枚の限定制作、巧藝画(高精細多色刷+岩絵の具手彩色) |
型番 | #OK-HI-YO242 |
特記事項 | |
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名画を忠実に再現
(文・あゆわら代表 榎本)
「あれ、版画のはずなのに、絵の具が手で塗られていて原画みたい。」
この巧藝画と呼ばれる複製画を見たときの第一印象です。
描かれた枝などを、目をこらしてみると実際に絵の具が塗られていることがわかります。
それもそのはず。巧藝画は版画を作ったあとに、実際に絵師が原画と同じ顔料で絵を描き直しているんです。
「描き直すのなら、版画を作らず、輪郭から含めて描き直せば良いのでは?」と思いましたが、名画を輪郭まで含めて模写するのはほぼ不可能です。
版画を作り、絵師が丁寧に顔料を塗り直す。この巧藝画の手法が、名画を再現する究極の手法だと感じました。
平山 郁夫
1930年 - 広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)に生まれる。
1947年 - 東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
1952年 - 卒業とともに同校助手となる。
1973年 - 東京藝術大学美術学部教授に就任。
1988年 - ユネスコ親善大使に就任。
1989年 - 東京藝術大学学長に就任。1995年まで務める。
1992年 - 世界平和アピール七人委員会委員に就任。2005年まで務める。
1992年 - 日中友好協会会長に就任。2008年まで務める。
1992年 - 早稲田大学より名誉博士号贈呈。
1994年 - 文化財保護振興財団理事長(現・文化財保護・芸術研究助成財団) に就任。
1996年 - 日本育英会会長就任。2001年まで務める。
2001年 - 再び東京藝術大学学長に就任し、2005年まで務める。
2005年 - 日韓友情年日本側実行委員長に就任。
2005年 - 東京国立博物館特任館長に就任。平城遷都1300年記念事業特別顧問。
2009年 - 永眠(満79歳)
平山郁夫のテーマについて
これといった絵の主題・ライフワークを見つけられなかった若かりしころの平山郁夫。
「「仏教伝来」という絵には、無心に近い状態で打ち込めた。」
「原爆症から救われたいと願う気持ちを三蔵法師の姿を描く筆にこめられた」と感じる。
その後、一作一作と積み重ねていくうちに、仏教というファインダーをとおして東西文化の歴史を通して東西文化交流の歴史を自分なりに追い求めてみようと、「自分の世界」を固めていった。
「生命力のある絵」を描きたい
日本の文化が、生命力ある存在となってほしいと思う。それには、何が必要なのか−。
月並みかもしれないが、人間への理解、人への情愛だ、と信じている。
日本国内の花を描くときに、その花に自分は何を感じ、何を見ようとしているのか。
また、外国に出かけていって遺跡を描くとき、その人は一体、何を感じ、何を思うのか。
人間としての情愛に満ちることはなかなか難しいとしても、人間としての情愛に欠けるようでは、そこに生きる人々と言葉を交わして理解を深めることも、そこに咲く花を味わうことも、そしてそこの歴史のそこに流れるものを理解することもできないだろう。
わたしたち画家は、絵という表現方法を使って多くの人たちと会話を交わそうとしているのかもしれない。
その絵の前に立ち止まった人が、もし感動するとすれば、それはその絵から「愛」を感じたからではないだろうか。
モナリザにいまだに多くの人たちが感動するのも、その絵から人間への情愛を感じるからだ、と私は思っている。言い換えれば、技法がいくら新鮮で独創的であろうと、後の世の人に真似されたらおしまいである。
だが、人間への情愛に裏打ちされた表現は、真似しようにも限界がある。
「生命力のある絵」を描きたいと、と私は常に心がけている
参考文献:「生かされて、生きる 平山 郁夫・著 角川文庫刊」